いじめの本質と解決策

いじめ、ダメ絶対。

最近よく聞いたり聞かなかったりするキャッチコピーだ。

メディアの力は大きく、そのメディアのいじめ反対運動をもってしても学校社会からいじめがなくならないのは、メディア側も生徒側も学校運営側も何故いじめが悪なのかを理解できていないからだと思う。

今からあれこれ論じようとしている私があれこれ論じるほどの知識がなかったので、いじめが悪性であるかについて論ずる前に、いじめとは何かについて確認しておこうと思う。

こちらを見ると

①自分より弱い者に対して一方的である
②身体的・心理的な攻撃を継続的に加えている
③相手が深刻な苦痛を感じているもの。
※学校の内外を問わない。
が定義であるそうだ。

学校という無秩序地帯に明らかな弱者を放り込む行政にも責任があるんじゃないかと思うが、

それについての提案はまた今度にしておいて今回はいじめの本質について理解を深めようと思う。

 

小学校とは基本的に地域住民の子供を一つの学校におしこめて教育する施設であると思うが、

おしこめる際の基準がランダムである以上そのおしこめられた生徒の能力には上位下位がある。

 

クラス社会で上位と認められた生徒は下位の生徒に対して大人社会の道徳なら到底許されそうにない行いを働く事がどこの学校でも見受けられる。

上位の生徒は下位の生徒に大していじめ行為の自制ができないし、そもそも自制をする必要を感じない。

 

子供は俗世的な理性よりも本能のほうが強く、自分より劣っている下位の生徒を排他し、断絶に追い込もうとするのは生物としては当然に思える。

 

国家間でさえ利己的ないじめをするし、メディアだってスキャンダルをネタにいじめまくっている。

大人達は無理だけど子供はいじめをするなとは言えないだろう。

 

これらを大人が咎めるには、道徳的な事を無視して考えるしかないのではないだろうか。

学校運営はPTAの協力によって成り立っており、PTAの子供がいじめられる事態が起きれば学校運営に支障をきたす。

 

そう生徒に説明すればもし生徒がいじめを働こうとした時、自己の行いはPTAに対する間接的な暴挙で、それと関連して自己は学校運営の障害に成り得てしまうと考えられる。

 

大人の汚い部分を見せたくないのなら、先生にチクるという制度を廃止し、生徒による生徒の糾弾を認めるしかないと思う。

 

昔読んだ本にもあったが、ある環境での問題を外部から改善する事は難しく、一番望ましいのは環境に自浄能力を持たせる事である。

 

クラスないし学級に法廷を設け、生徒の意志で法を作らせる。

社会の多数決で作られた法には従う道理があり、従わないものに大して生徒機関は糾弾あるいは刑罰を施す義務と責任がなければならない。

 

法の概念を的確に学べるし、

ルールを守る道理を知れる。

 

子供とはある意味で大人よりも理屈を欲するのである。

参加型の秩序システム

法を守る事で法に守られる。

国民はその国の法に本人の承諾なく参加させられる。

殆どの場合法は国民の権利を保護するか、稀な場合国民の権利を見捨てることがある。

こういった場合があるのだから、法は完璧ではなく、完璧ではない法に承諾なく従わせられる国民は少しばかり可哀想ではないかと思う。

自主独立が尊敬されるこの世の中なのだから、いっその事、法への参加を任意にしてみるのはどうだろうか?

刑法199条に殺人罪というものがあるが、

刑法ごとに参加できる仕組みはどうだろうか。

刑法199条に参加する者は刑法に守られるが他人を害することはできない。

参加しない者は殺人を犯しても咎められる事がなく、他者に害された場合も文句を言えない。

議会、内閣、裁判所は通常通りあるが、議会の法案は現行の制度より通りやすくする。

議会は日々ありとあらゆる法案を発表し、メディアがそれをカタログ状に宣伝する。

国民はそのカタログ状の情報を吟味し、自分にあう法に参加できる。

誰がどの法に参加していて、参加していないのかはITとIoTで管理する。

法をサービス化し、法の淘汰を促進する。

国民は行政に文句をいいにくくなり、法に対する意識が変る。

一時期の動乱は予想されるが、しばらくすれば治まると思う。

その時国民は法のありがたみを実感し、適度な法案が残る(適度な法案にのみ大多数の国民が参加している状況)

 

 

 

 

 

国連と平和 混血主義を目指して

大二次世界大戦に負け、枢軸同盟は悪になり、国際連合が誕生した。

国際連合で実権を握るのは、第二次世界大戦の戦勝国のみである。

平和と対をなす戦争によって誕生した平和を目指す国際機関が世界に影響力を持っていいのだろうか。

国連は世界の民族主義化を促進し、大国からあらゆる民族国家が離反していった。

民族というコミュニティが国として確立されると、その国の価値観がその民族の思うがままに固定化されてしまう。

その固定化された価値観は他民族との競争、排他に発展し、最終的に戦争を引き起す。

私は三つの民族の血を受け継ぐ混血種で、父は日本人であったが母はある国とある国のハーフであった。

私は日本国籍を持っているが、心のそこで他の日本人との差異を感じてしまっている。

日本人を含む諸民族の民族主義に違和感を感じている。

国際問題により公平な見地から意見できるのは、二つ以上の国のルーツを持ち精神的に中立である混血なのではないか。

戦勝国からなった国連よりも、混血種の有識者からなる真の社会秩序を目指した国際機構があればより世界を平和にできると思う。

何も純潔種、民族を排他しようというのではない。民族と民族を融合させ、混血化を促進し、家庭単位での価値観の理解・融合を図る。

文化さえ平和の障害といっていい。

世界が混血種になり、文化が文化に淘汰されるのならそれも平和への貢献となるだろう。

戦争を起こしたくないのならそれぐらいの努力をするべきである。

私はそれらをする為にまず影響力を欲している。

 

価値観の共有

価値観の共有には限界がある。

価値観とはそれを持つ者の人生から生まれるものであり、まったく同じ人生というのは存在せず、またその価値観もまったく同じものはない。

この事実がある以上、人々の歩み寄りからなる平和の実現は難しいものと思う。

我々の文明は平和に到達できるのか、そもそも平和に到達すべきなのか、唯一無二の真理は平和なのか、

私は平和を目指す事を人生の養分にしている節があり、時々自分の活動に疑問をもってしまう。

 

同性愛と異性愛

30人に一人は同性愛者だという。

私は性の思想にとても寛容で、どちらかといえば同性愛よりも異性愛に疑問を持つ人間である。

同性愛、異性愛の愛とは、人を愛するということである。

愛とは、他者に大して無償の愛をささげるというものであり、異性愛者はその愛を異性に捧げている。

私がよく考えるのが、異性愛者の愛はその相手の性に捧げているものか、人格に捧げているものかという問題である。

もし前者ならば、我々人類の文明の程度は低いのではと考える。人格に捧げているならば、そこそこの程度をもっていると外文明に誇れる。

どちらかに優劣をつけたいという訳ではない。

生物としての高見を目指すのか、哲学的高見を目指すのか、個々の人間によってそれぞれであると思う。

ただ、愛の定義と、それの用法と実情に少々の違和感を感じているだけなのである。

想像の限界

想像の限界について考えたことがある。

もし自分が二百年前の江戸時代にタイムスリップしたなら、恐らく現代の知識を用いて偉人に取り入り、制度を改革したり文明的な機械をその時代で初めて作り出したりできただろう。

現代の知識があるなら良いが、もし現代の知識がなく、二百年前の一百姓として暮らしていたなら、現代の知識を用いたような革新が可能であっただろうか。

結論は歴史が説明している。答えは「不可能であった」だろう。

自らの生活を豊かにして幸福を得るため、人は思考という高等な活動を行っている訳だが、本当に思考は高等なのだろうか?

思考は内容を含まない表面的なもの。思考は物事に対する反射行動であって、物事を解決する等といった大層なものではないのではないだろうか。

もし現代から二百年後の歴史家が現代の文献を読み、現代を理解した時にその歴史家は何を思うだろうか。

未来の◯◯を以てすれば現代の問題などこうも簡単に解決できたのに、と 歴史のifを考えるのだろうか。

考えたとしてもそれは当時では不可能であったし、思考は万物に大して反射的な効果しかもたらさないのだろう。

だとすると想像の限界とは、人が思っているよりも低い位置にあるのではないだろうか。

 

究極の平和

人々は日々平和を願っているが、中途半端な平和は一部の人にとっての平和であってまた別の一部の人間にとっては納得し難い状態なのだ。

そう、真に願うべきは究極の平和なのだ。

究極の平和でなければ別の誰かにとって不幸の時代になりえるのだ。

願うのはよいが、問題は方法である。

どのようにして究極の平和を実現するのか、そもそも究極の平和とはなんなのか。

究極の平和とは、全人類が共通して平和を感じれる状態の事を言うものでなければならない。

究極の平和とは、全ての人が公平に平和を感じれる状態の事を言うのだ。

究極の平和を実現するにあたって必要なのは、公平な管理システムである。

個人の平和を感知し、数値化し、平和に対する感度を公平にしなくてはならない。

その為に必要な技術が、IoTである。

物のインターネットと例えられるIoTは、物を介して影響を与える事ができるのと同時に物を介して統計情報を受け取ることが出来る。

心拍数や、究極的には人の経験を全て感知し、そこから平和に対する感度を算出出来ればよい。

人々から統計情報として受け取ったデータは、人工知能が捌く事で公平な管理システムとなりえる。

人工知能は受け取った数値を理想値に近づける為のプランニングと、プラン評価プログラムで、より公平に幸せを享受できるようになれるだろう。

 

だといいなぁ