手段としての学校

学校の利用は、幸せを掴む為の手段であるべきなのだ。

今のこの社会より人を優先できる時代において、幸せとは人によって千差万別である。

学校とは本来生徒を外界から守り、生徒に教養を与える場所であるが、

運営コストの限界からそれらの目的を同一の場所で行うようにしてしまったことが、現代の社会問題に少なからず影響を与えている。

民主主義国家ならば、国家の役割は国民を幸福にすることであり、国民の幸福に貢献する社会の維持である。

国民を一人でも多く幸福にしたいのなら、

わざわざ人を一箇所に集めて精神的ストレスを与えるのではなく、

人の性格や特徴にあわせた環境をつくり、個人はそれらの環境と別々に関わることで精神の安定と価値観の中和を成せるようにすべきである。

具体的にいえば

知識を学ぶ場、食育を受ける場、体力を向上させる場、技術を学ぶ場 の四つに分けるべきだ。

同一の場でこれら全てをうけると、人によっては環境内での立場が固定化され、将来の可能性をせばめてしまう。

教養の種類によって場所を分けることで、一つの場所で醜態をさらしたとしても別の場所で挽回できる。

反省し、教訓を実践できる環境であれば自ずと社会は良い方向へとすすむだろう。

 

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